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When have we lost our perspective?
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人間は「生物」であり、時計は「無生物」である。
Human is "life" and clock is "non-life".
それはあくまで「生物」の定義が、細胞から成り立っているかどうかによって区別される世界においての話だ。
Yet this is a definition of "life" being something made up with cells which is commonly accepted in the world.
電気で動く時計と人間は、電気信号で動いているという括りでは同じであり、 細胞から成り立っているかではなく、電気が活動の源であることが「生物」の定義である世界であれば、 「人間」も「時計」もあくまで表層的なものを示す記号でしかなく、同じ「生物」になる。
Both clock and human have their motive power in electricity, and they are equal in terms of their life source being electronic signals. If the definition of "life" is something that of motive power is electricity, then "human” and “clock” equal.
その世界においては、私達の心臓が鼓動を打つことと、時計が針を刻むことは何も変わらない。
Under that definition, there is no difference between our heart beats and tickings of a clock.
私達人間がお互いに認識しあえる世界が存在するように、人間に時計が見えているのであれば、 生命活動を始めた時計からも、人間が見えている世界が存在するのかもしれない。
If the world is existing as a place where multiple beings recognize each other, the clock which started to have its own life, may possibly perceiving the same world that humans are perceiving.
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この作品では、「間主観性」にフォーカスしています。
二人以上の人間が存在するときに、一方の人が見ている世界(=その人にとっての主観)と他方の人が見ている世界(=他の人にとっての主観)が必ずしも同じ世界であるとの保証はないけれど、お互いの主観が交錯した共通な空間を認識しながら成り立っている間主観的な世界があるとき、世界の中に間主観的な世界が存在するものだと考えるのと、間主観的な世界の集合体が世界を構築していると考えるのでは似て異なるもので、その間主観的な世界においては捉え方や定義ひとつでまったく別の空間を生み、それはつまりまったく別の世界の存在の示唆にもつながるというような意識や空間へのアプローチを、この作品を通じて表現してみました。
人間は「生物」であり、時計は「無生物」である。
Human is "life" and clock is "non-life".
それはあくまで「生物」の定義が、細胞から成り立っているかどうかによって区別される世界においての話だ。
Yet this is a definition of "life" being something made up with cells which is commonly accepted in the world.
電気で動く時計と人間は、電気信号で動いているという括りでは同じであり、 細胞から成り立っているかではなく、電気が活動の源であることが「生物」の定義である世界であれば、 「人間」も「時計」もあくまで表層的なものを示す記号でしかなく、同じ「生物」になる。
Both clock and human have their motive power in electricity, and they are equal in terms of their life source being electronic signals. If the definition of "life" is something that of motive power is electricity, then "human” and “clock” equal.
その世界においては、私達の心臓が鼓動を打つことと、時計が針を刻むことは何も変わらない。
Under that definition, there is no difference between our heart beats and tickings of a clock.
私達人間がお互いに認識しあえる世界が存在するように、人間に時計が見えているのであれば、 生命活動を始めた時計からも、人間が見えている世界が存在するのかもしれない。
If the world is existing as a place where multiple beings recognize each other, the clock which started to have its own life, may possibly perceiving the same world that humans are perceiving.
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この作品では、「間主観性」にフォーカスしています。
二人以上の人間が存在するときに、一方の人が見ている世界(=その人にとっての主観)と他方の人が見ている世界(=他の人にとっての主観)が必ずしも同じ世界であるとの保証はないけれど、お互いの主観が交錯した共通な空間を認識しながら成り立っている間主観的な世界があるとき、世界の中に間主観的な世界が存在するものだと考えるのと、間主観的な世界の集合体が世界を構築していると考えるのでは似て異なるもので、その間主観的な世界においては捉え方や定義ひとつでまったく別の空間を生み、それはつまりまったく別の世界の存在の示唆にもつながるというような意識や空間へのアプローチを、この作品を通じて表現してみました。